前回の浦賀散歩の続き。
海岸から山の方に向かう浦賀通りの交差点に一見普通の民家ですが、
廻船問屋の跡だそうです。
浦賀の海岸は深い湾になっていて、嵐から船を守れる天然の良港です。東京湾の入り口ということで船による国内流通の重要拠点のひとつだったようです。この解説によるともうひとつの重要拠点である伊豆の下田と合わせ105件の問屋があり、幕末のころには浦賀だけで60隻の船を所有していたとか。
当時はかなり賑わった問屋街だったようです。
また、さらに少し西に行くと昔の蔵があります。
これだけ立派な蔵を立てていたということは、干鰯(ほしかと読む。当時は畑の肥料)などでかなり儲かっていたんでしょうね。
先ほどの交差点に戻り、そこから少し南に行くと愛宕山公園に行く階段があります。
この公園は1891年に開園、当時は浦賀園と呼ばれていました。
こちらの文字は戊辰戦争の函館五稜郭で土方歳三と共闘した榎本武揚の書だそうです。
こちらの階段を上っていくと、
浦賀の港が見えます。
そして、この愛宕山公園には
咸臨丸出港の碑があります。
時は1860年、日本で初めてアメリカ、サンフランシスコに行った船ですね。
公園内の山道を進むと少し開けた場所にでます。
こんな感じで海を眺めることができます。
そして、この場所には高さ20mの坂本龍馬の像を立てる予定だとか。
坂本龍馬は直接、横須賀、浦賀や咸臨丸と関係なさそうですが、以前の赤坂でも勝海舟と一緒にいる銅像を見ました。評価に関しては人によって大きく異なりますが、幕末時代に新しい日本を作った立役者関係者の一人として、多くの人に崇められているんですね。ちなみに寺田屋事件で龍馬の危機を救い、後に龍馬の妻となる「おりょう」はここ横須賀で再婚し、そのお墓は浦賀から数kmのところにある信楽寺にあるそうだ。
公園のある山を下りて、先ほど見た船が停泊している港に来ました。
今は規模が大きい隣の久里浜のほうが有名ですが、波が穏やかな海を見ているとここ浦賀は港として最適な地だったと感じますね。
(つづく)