未来そうぞう日記

知的障害を持った息子と巡る日曜の東京、神奈川周辺の散歩、未来予想(妄想?)、そして気になる話題を報告します。

40年ぶりの頼朝の墓参り

鎌倉散歩の続き

 

鶴岡八幡宮から金沢街道を東に進み、少し路地に入ると昔ながらの丸型の郵便ポストがあります。

鎌倉はこのタイプが結構残ってますね。古都らしい風情があっていいです。

そして、清泉小学校の角には大蔵幕府跡の石碑があります。ここが鎌倉幕府の中心地となります。なんか大きな参道がある鶴岡八幡宮が鎌倉の中心のように感じられますが、頼朝、頼家、実朝の源氏3代による鎌倉幕府の政治はここで取り仕切られていたんですね。

この辺りの舗道にはこんな石板が埋められています。

源氏の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」ですね。ただし、義経木曾義仲はこの紋を使っていたが頼朝は使っていなかった説があるとか。

戦(いくさ)の時は無印のこの白い旗を使っていたそうです。それでも鎌倉の市章にもなっている笹竜胆はこの土地のシンボルとして欠かせない存在ですね。

さきほどの大蔵幕府跡から北へ1分も行くと白旗神社があります。

その脇にある石段。

こちらを上ると

源頼朝の墓があります。ここに来るのは約40年ぶりですね。初めて来たのは小学校の修学旅行。ここは鎌倉の中では結構地味でマイナースポットですが、故郷の三島は源頼朝と縁が深いので学校の先生たちが是非訪問すべきだということで来た思い出があります。自分的には円覚寺舎利殿とか見たかったのですが。

超有名人のお墓なのでもっと大きいものを想像したのですが至って普通の大きさ。偉人であっても当時はこれが一般的だと教頭先生からレクチャーされた思い出がありますね。最後は落馬して、その時のケガが原因で亡くなったと言われる頼朝。または義経や平家の亡霊を見るようになりストレスで体調を崩したという説も。女性にだらしなく、弟や親族を殺してまでトップに上り詰めた若干アンチヒーローの面もありますが、その後700年にも及ぶ武士の時代の基礎を作った人間としてスゴイなと自分が思えるようになったのは30代後半過ぎですね。このとき、改めて安らかにお眠りくださいとお祈りしてきました。

この近くには法華堂の跡があります。

と言っても建物は何も残っていませんが、遺構を示す杭が立っています。この法華堂に昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公、北条義時が祀られていたそうです。

さらにこの傍には島津忠久大江広元毛利季光の墓があります。

こちらは島津忠久の墓。島津忠久御家人の一人だが一説には頼朝の落胤という説も。薩摩、大隅、日向の三国にまたがる荘園、島津荘の地頭任命後、島津姓を名乗りに、江戸時代末まで薩摩を治めた島津家の一代目になった、つまり戦国時代、関ケ原の戦いで有名な島津義弘や幕末時代、日本の近代化に大きく貢献した島津斉彬の先祖にあたる人物だ。

こちらは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で最後まで活躍していた大江広元の墓。ドラマなの中では武人が多い中、文官として理知的かつ毅然とした態度で取り仕切っていたのが印象的ですね。

こちらは毛利季光の墓。広元の四男で後に中国地方を治めた毛利家の初代当主。三本の矢の教えで有名な毛利元就の先祖にあたりますね。

とまだまだ鎌倉散歩が続くのですが、続きは数か月後に再会します。