「みんな違って、みんないい」とはどういう意味?
これは金子みすゞ作「私と小鳥と鈴と」の詩の一節で、Eテレの「にほんごであそぼ」で元大相撲力士の小錦が歌ってよく流れたためか、サビであるこの一節はかなり有名になりましたね。
一方、サビの前の詩を知らず、この一節だけでいろいろ解釈する人がいるとか。
私が両手を広げても
お空はちっとも飛べないが飛べる小鳥は私のように
地べたを早くは走れない私が体をゆすっても
きれいな音は出ないけれどあの鳴る鈴は私のように
たくさんな歌は知らないよ鈴と小鳥と それから私
みんな違って みんないい
と詩全体を見ると「みんな違って、みんないい」は
できること、できないことは人によって違っても、みんなOKだよ。
という解釈できます。いわゆる「ダイバーシティー(多様性)」の考えですね。
これに対しある人は「みんな違って、みんないい」の一節のみ見て、
他人を気にせず自分の思うようにしても良い
と解釈してました。
許容する
そして、別の人は、
みんな違っていることがいいことだから、個性を伸ばしましょう
と解釈してました。
「他人を、、、」のほうは一歩間違えば単に我儘を正当化しているだけで、都合がよすぎる解釈です。
一方、「個性を伸ばそう」というのはオリジナルの詩の意味からはずれていますが前向きな点は評価できますが、さらにこんな解釈に。
みんな違っていることがいいことだから、個性を伸ばすべき(みんな違うべき)
これは極端な表現にしてますが、「みんな違って、みんないい」の一節を使って、この内容の主張している記事を時々見かけたりします。
空気を読んで協調するのが日本人の美徳という考えが長い間主流となっていて、そのアンチテーゼとして個性を認めて伸ばそう、出る杭を打たずに伸ばそうという考えが目立ってきたのは非常に大賛成ですが、逆に個性をもたないことは良くないという考えにはちょっと違和感を感じますね。
両極端というか「ゼロ」か「イチ」というか。
そして、今度は個性を伸ばすことが主流になって、空気読んでいる人を批判したり、個性=得意分野を持たない人を馬鹿にしたりするようになったら嫌ですね。
そんな風に考えると日本人はもともと協調ではなく、同調を求めているのかも。
協調=考えが違う人同士がお互いに譲り合って調和して解決方法を見つけていくのではなく、同調=自分の考えは抑えて他の考えに合わせていく、厳密にはより多くの人が支持するメジャー考えに合わせていくことを求めているんでしょうね。
結局、新しい「個性を伸ばそう」という考えにも同調しろというプレッシャーが発生し、その考えに適合できない人が生きづらくなりそうですね。
本当、「空気を読んで協調し合おう」という考えの人も、「個性を認めて伸ばそう」という考えの人も「みんないい」という風になって欲しいですね。
(Picture By Pixabay)
今週のお題「寿司」
社会人1年目、初任給で廻らない寿司を同期と一緒で横浜へ食べに行きました。
さすがにカウンターでお任せというわけには行きませんが、少し贅沢な握りを食べて、少し大人の気分を味わいました。
そういえば未だにカウンターの寿司は行ったことないので、コロナが落ち着いたら行ってみたいですね。